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「緩和キュア」という概念が医療現場に混乱を
『今、改めてキュアかケアかを考える』

北斗病院在宅医療科・在宅緩和療養センター長
谷田憲俊
「キュア」とは「治癒(医療)」のことで、ステッドマン医学大辞典には「病気やけがを治すための医学的処置」とある。「キュア」を得た患者は、その後は医療を受ける必要がない。他方、「ケア」は「心遣い」で、「治癒を目指すこと以外の医療の多様な側面にも心遣いしましょう」という概念を言う。具体的には、医療や看護、介護等の業務の多くが「ケア」の実践に相当する。その典型が、治癒を望めない患者に対して、あるいは苦痛を伴う治癒医療を受ける患者に対して、不快な症状をとり除き、安らぎと癒しを提供し、生の質を高める「ホスピスケア」または「緩和ケア」である。治癒が得られない疾患では、かりに「キュア」されたとしても限定的・一時的なので、継続したケアが必須である。ところが、最近、「緩和キュア」という言葉が市民権を得るかのごとき様相を呈している。そこで、ここで改めてキュアかケアかを考えてみたい。
   まず、混沌とした医療情勢と死の受容は困難という現実を押さえておく必要がある。巷には「がんと徹底的に闘え」という名医と、「がんと闘うな」という名医がいる。高名な医師は、繰り返し「がんばらない」を勧めたかと思うと「あきらめない」と異なることを勧める。これでは、患者は振り回されるだけであろう。患者が治癒を目指すことは十二分に理解できる。死の五段階説をとなえ「患者は受容して死にいく」としたキューブラー・ロス自身がカルトにのめり込んだまま死亡した。死の受容を提唱した彼女が受容できなかったことは、死を受容する困難さを如実に表す。加えて「病初期から緩和ケアを」の標語が医療者に「緩和キュア」を主張させる一因になった可能性もあり、「緩和キュア」と銘打った専門誌も現れている。いずれにしても、医療現場に混乱を招くのが「緩和キュア」という概念である。

 「キュア」には、“医療モデル”が適用される。すなわち、医療の対象を特定し、評価し、必要な処置を行い、病気やけがを治して社会復帰させ、その患者に対する医療の役割は終わる。致死的疾患にも医療モデルが有用なことはある。例えば、がん性疼痛を評価し、鎮痛剤を用いて除痛するというモデルが相当する。しかし、その場合も継続診療が必要なので「キュア」の概念に当てはまらない。かりに、それを「キュア」とするなら、患者診療の継続性はいったん断ち切られかねない。そういった事態は緩和ケアの理念と相容れないし、患者・医療者関係に悪影響を及ぼすであろう。「緩和ケア」には医療行為も含まれるので、「緩和キュア」という言葉を用いる理由はない。

 「緩和キュア」が出てきた背景には、医療に対する過剰な期待があると思われる。貝原益軒の『養生訓』には、「医に上中下の三品あり。上医は病を知り脈を知り薬を知る。下医は三知の力なし。中医は上医及ばすともみだりに薬を用いない」と古代中国の考えが紹介されている。また、班固の『漢書』を紹介して、「道理、誠にしかるべし。病あらば上医の薬を服すべし。中下の医の薬は服すべからず。今時、上医は有がたし、多くは中、下医なるべし。薬をのまずんば、医は無用の物なるべしと云。答曰、しからず、病あつて、すべて治せず。薬をのむべからずと云は、寒熱、虚実など、凡病の相似て、まぎらはしくうたがはしき、むづかしき病をいへり。浅薄なる治しやすき症は、下医といへども、よく治す。感冒咳嗽、風邪、食滞、かやうの類は、まぎれなく、下医も治しやすし」とした。後者の「インフルエンザ、かぜ、胃炎などは下医でも治せる」という言葉は、古代中国の諺「中医に診てもらうのは、医師にかからないのと同じ」に通じる。これら古代中国の言説は今でも真で、インフルエンザやかぜなどに特効薬はないので(抗インフルエンザ薬は対症療法)、要らぬ薬を服用すれば害反応が得られるだけである。

 翻って現代医学を眺望すれば、「11%は劇的に成功、9%は患者を害する、80%はどちらにも無関係」という実態がある。かつてモリエール(1622〜1673年)が「医学は人間世界に存在する最大の気違い沙汰のひとつ」あるいは「医学は病気にも治療にも殺されない者のためだけにある」、そしてホームズ(1809〜1894年)が「今ある薬を全て海に投げ込め。魚には迷惑だが、人間には大きな福音だ」としたのは今でも真であると言えよう。2000年にイスラエルで医師が長期のストライキを打ったときに国民の葬儀件数が有意に低下したことも同じ理由であろう。今でも、有効とされてきた治療法がかえって害になると警告される事態が続出している。専門医にかかれば、予後もケアの質もかえって悪いという実態もある。

 しかしながら、残念なことに、一般市民はもちろん医師にこれらの情報はほとんど理解されていない。そればかりか、医療の有用性のみが煽り立てられたことから、巷は医療に対する過剰な期待に満ちている。そういった状況から、医学的に不可能なことまで要求されて、それが満たされないとの訴えが最高裁においても通ってしまう実態がある。医学医療の有用性を煽り立てたのは医師なので、そういった状況は自業自得と言える。一方、かつて市民を煽り立てていた医療者側はその不適切さを理解したためか、無益な医療に消極的になり始めている。他方、医療への期待を煽り立てられた一般市民は「最後まで治癒医療を追い求める」という姿勢を示す。しかし、濃厚治療に満足すると死亡率は上昇するという医学医療の現実を理解する必要がある。

 有益な医学医療を有効に利用すればとても役に立つ。しかし、日頃行われている医療行為には無益なものや、逆に害になる医療行為も多いのが実情である。ここで医科学を適切に使いこなせばいいわけだが、医学も科学の一翼なので「科学に使われてしまう専門家」になりがちである。古代中国の言説に合わせれば、「上医は医科学を使いこなすけれども、中下医は医科学に使われてしまう」ことになる。医療の受給者である患者や家族は、医学医療に過剰な期待を抱かずに冷静な目で見る必要がある。患者と家族には「キュア」が得られない状態では「キュア」を求めない理性が求められる。それでも「キュア」を求めるのが患者と家族だが、それには「ケア」の理念で対応することが医療者に求められる。貝原益軒は『養生訓』で、「つねに楽しみて日を送るべし」「人には自然治癒力がある」「医療に頼るより、日々の養生」と述べており、その言葉は今でも真である。
(注記:医学情報で出所を希望の方は著者まで


略歴
谷田 憲俊(たにだ のりとし)

1973年弘前大学卒業後、函館市立病院消化器科、兵庫医科大学付属病院第四内科、同助手を経て1983年国立加古川病院第一内科医長・研究検査科医長。兵庫医科大学第四内科助手、助教授を経て2003年山口大学医学部医療環境学教授。定年後社会医療法人 北斗 北斗病院在宅緩和療養センター センター長、現職。
この間1978年よりロンドン大学衛生・熱帯病大学院ディプローマ課程、ロンドン大学ガイズ医学校消化器内科研究員英国臨床研究センター臨床生化学部門研究員。
医学博士。
単著または主監
「対話・コミュニケーションから学ぶスピリチュアルケア」(編集)診断と治療社、2011年、「ユネスコ生命倫理学必修」ユネスコ原著(編集)医薬ビジランスセンター、2010年、「感染症学(改訂第四版)」(単著)診断と治療社、2009年、「患者・家族の緩和ケアを支援するスピリチュアルケア 初診から悲嘆まで」(単著)診断と治療社、2008年 「患者の権利 患者本位で安全な医療の実現のために」GJ.アナス原著、(監訳)明石書店、2007年、
「見逃してはいけない感染症」(単著)診断と治療社、2007年
「インフォームド・コンセント その誤解・曲解・正解」(単著)医薬ビジランスセンター、2006年
「幸せをよぶコミュニケーション」J.サロメ原著、(監訳)行路社、2004年


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