市民のためのがん治療の会はがん患者さん個人にとって、
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市民のためのがん治療の会
あるがん患者の死
『想いを南風に乗せてA−「唐牛伝 敗者の戦後漂流」』

堂園メディカルハウス院長 堂園 晴彦
「唐牛伝 敗者の戦後漂流」は佐野眞一氏の著作で本年7月の小学館刊である。
ノンフィクション作家の佐野氏は2012年に週刊朝日に発表した飛ぶ鳥を落とす勢いの橋下徹大阪市長(当時)の出自をめぐる記事が差別的だとしてバッシングを受け、週刊朝日の連載は中止となり、休筆を余儀なくされた。本書は復帰作だ。
気っぷの良さと人を魅了する笑顔など人間的魅力に満ち満ちた若者は、明るさの裏に出自に関する劣等感を隠し、60年安保闘争にのめり込んだ。唐牛(かろうじ)健太郎は、その後居酒屋店主、漁師と職を変え、鹿児島県与論島、厚岸、紋別と日本中を転々とし、結局大腸がんでこの世を去った。
手術をした国立がんセンターで主治医として最後を看取った堂園先生の「想いを南風に乗せて」の第2号としてお届けする。
(會田 昭一郎)

「唐牛健太郎」という名前を覚えている人は少ないだろう。北海道が産んだ戦後最大のサブカルチャーの巨人と言ってもいいだろう。

今回、北海道生まれである点とがん患者であったので、書かしてもらった。

映画監督 大島渚をして、60年代のヒーローを石原裕次郎、長嶋茂雄、の他に唐牛健太郎と言わしめた人物である。

何故唐牛がヒーローか疑問に思う人も多いだろう。本書を読むと納得がいくに違いない。抜群の行動力と天性の明るさと人を引き付けてやまない笑顔の持ち主のおかげであろう。人たらしであった。

唐牛は46歳の時に進行性の直腸がんになり、国立がんセンターで手術をした。私は主治医の一人であり、最後の脈を取った。入院中問わず語りでいろいろ話を聞いた。

唐牛は函館生まれの北大出身であり、私の義母も函館生まれであり、親近感を持ってくれたのかもしれない。唐牛は湯の川育ちであり、義母は元町育ちで、旧姓平野といい、父親は耳鼻科を開業しており、函館の医師会長もしていた。読者の中には、記憶している方もいるかもしれない。

唐牛は1959年22歳で全日本学生総連合(全学連)の委員長になり、翌年4月26日、60年安保改定反対デモの時に約20万人の学生や労働者の先頭に立ち、国会議事堂を封鎖していた装甲車を乗り越えようと演説し、自ら最初に装甲車を乗り越え国会議事堂に飛びこんだ男である。

その後6月15日の国会デモで、東京大学の学生であった樺美智子さんが亡くなる悲劇が生じたが、19日新安保条約は国会で強行採決され自然承認された。唐牛はその時は既に逮捕されており、デモには直接関与していなかったが、樺さんの死に責任を感じ、心に傷を負い社会に迎合することを拒否し、一生放浪の旅を続けることを選んだのである。唐牛の人生は波乱万丈そのものであった。

ある時は四国巡礼へ、ある時は与論島のサトウキビ農民に、ある時は紋別の底引き網漁船の漁師になり、ノマドのように彷徨うのであった。

本書は、ノンフィクション作家 佐野眞一氏が久しぶりに筆をとり、唐牛の心境や軌跡を辿った。佐野氏は一連の不祥事のために筆をとれず、やっと書いた本が「唐牛伝」である。安保後の唐牛の時と同じで挫折感を乗り越え懺悔の意味で力を振り絞って書いたのだろう。哀愁が漂っているのだが、読後は不思議とさわやかな気持ちになる。

60年安保は成立したが、当時の総理大臣 岸信介は責任を取って退任した。その時の運動がなければ集団的自衛権が成立し、日本は韓国と同じようにベトナム戦争に参加することになっていただろう。60年安保の多大な功績である。

交流は多岐にわたった。太平洋ヨット単独初横断の堀江謙一氏や山口組三代目組長 田岡一雄氏とも親交があった。真偽は定かでないが、「田岡組長から行動隊長にならないかと誘われた」と、笑いながら話してくれた。徳洲会創始者 徳田虎雄氏の最初の選挙の時には、選挙参謀となった。唐牛の人間性には、相手方の保岡興治氏の運動員までもが惚れてしまうのである。

私が、「徳田虎雄はどうでしたか?」と問うと、ニヤッとして「三日で飽きたよ」と、話してくれた。

与論島でサトウキビ農民をしていた時には、唐牛を慕って多くの友人が押し掛けた。詩人の山尾三省氏もその一人であり、ある友人はそのまま居ついて長年もやし作りの仕事をしていた。

オホーツクでは底引き網を引き上げるのに手が塞がるので哺乳瓶を吊るし、焼酎を飲んで仕事をしていたそうである。因みに国立がんセンター初診時の問診では、‘アルコールは毎日焼酎5合’と書いてあった。

唐牛はとにかくスケールの大きな男であり、群盲象をなでるがごとく人間性の全容は把握しがたく、この本を読んで初めて知ることができる。

1984年3月4日午後8時23分 直腸癌で亡くなった。享年47歳だった。その夜は春雷が鳴り響き、密葬の時には大きな地震があった。

時代は人を作る。時代が唐牛を必要としたのかもしれない。その時代にふさわしい人の出る時代は幸せである。長嶋茂雄も石原裕次郎も唐牛健太郎も高度成長時代が必要としたのかもしれない。英雄のいない時代は不幸であるが、英雄を求める時代はもっと不幸である。英雄を求めようともしない今の時代は、若者にとっては最も不幸な時代かもしれない。

私への遺言は「言葉は腐るから気をつけろ」である。

最後に本書でもう一つ明らかになったのは、唐牛がこれだけ自由奔放に彷徨えたのは、いつも隣に妻の真喜子がいてくれたおかげでということである。


略歴
堂園 晴彦(どうぞの はるひこ)

慈恵医大卒業後、国立がんセンター、慈恵医大講師・鹿児島大学産婦人科講師を経て1991年堂園産婦人科で在宅ホスピスを開始。1996年有床診療所堂園メディカルハウス開院。通院・入院・在宅をコンビネーションしたホスピスケアを開始。
現在、堂園メディカルハウス理事長・院長、NPO法人風に立つライオン理事
著書:絵本「水平線の向こうから」(絵 葉祥明)と「サンピラー お母さんとの約束」(絵本田 哲也、北海道在住)、エッセー「それぞれの風景 人は生きたように死んでいく」 医学博士

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