市民のためのがん治療の会はがん患者さん個人にとって、
  最適ながん治療を考えようという団体です。セカンドオピニオンを受け付けております。
   放射線治療などの切らずに治すがん治療の情報も含め、
  個人にとって最適ながん治療を考えようという気持ちの現れです。
市民のためのがん治療の会
これがセカンドオピニオンだ No.2
運命としか言えない「医師との出会い」
『明日に向かって―肺転移した骨肉腫を克服して』

朴 美淑
このケースは、市民のためのがん治療の会にセカンドオピニオンを求めたものではないが、優れた治療技術と何よりも患者や家族を思う情熱にあふれた医師に遭遇した患者が、奇跡的にがんを克服した事例である。
編集子は決して運命主義者ではないが、4cmにも膨隆し口腔底にまで顔を出すに至った自らの舌がんを、懸命に探し出した舌がん治療の権威の西尾正道先生に治療していただくことができたことを、運命としか説明できないような気がしている。
ここにご紹介する事例も、偶然にも西尾先生に巡り合った朴さんの、懸命な闘病の記録である。
またこの原稿に対して、主治医だった西尾先生から朴さんの治療について簡単な説明とコメントを頂いたので同時に掲載する。
このような事例の公表にご協力頂いた朴さんに感謝いたします。
(會田 昭一郎)

先日、半年ぶりにがんセンター放射線治療科の検診にいってきました。放射線治療科での検診を受けるようになってから、14年という月日が流れました。CT検査を終え診察の順番を廊下で待っていると長年私の主治医だった西尾先生に偶然お会いすることができました。今は、北海道がんセンターの名誉院長で大変お忙しい身でありながら、私の隣に座り色々お話をして下さいました。

西尾先生との偶然の再会で、私は今までの闘病を振り返るチャンスをいただきました。西尾先生は、私の命を今に繋げる架け橋になってくれた先生です。


私は今56歳で、『骨肉腫』を克服して生きています。22歳の時、右足に突っ張るような気になる痛みがあり、一度病院で診てもらおうと軽いきもちで受診しました。これが私の闘病の始まりでした。

個人病院から大学病院を紹介され、検査をした結果、診断は『線維肉腫』でした。

発病当時、私はまだ若く、今ほど病名をオープンにする時代ではなかった事もあり、病気の詳細は誰からも聞かされていませんでした。今思えば両親の愛情だったのでしょう。『線維肉腫』は進行が緩慢なので、摘出したら大丈夫だろうと聞いていました。

最初の手術で、膝下にある肉腫と骨を切除しました。次の手術は、切除して空洞になっている骨の部分に骨盤から骨をとり埋める予定でした。

その間に抗がん剤治療をしましたが、もともと体力のない私には負担が大きすぎたようで、体力が低下して肝臓の数値も悪化してしまい、予定していた2回目の手術ができませんでした。

2回目の手術のため体力回復をまっている間に、なんと、空洞になっていた骨に自力で骨が再生され、手術をしないですみました。まだ若かったので、骨が生まれてきたのだと言われました。1年間位は、再生されてきた骨を守るため装具をつけての生活になりましたが、順調に回復しました。

一度病気になると、不安はいつもつきものです。毎年の検診は欠かさず受け、7年間何事もなく安堵した日々を過ごしました。病気に理解のある主人と結婚して、子供にも恵まれました。

ところが、一人目の子供を産んで、間もなくする頃に、又足に嫌な痛みを覚えました。腫瘍の再発でした。「乳飲み子を抱えてこれから子育てという時に再発だなんて……。」途方に暮れました。

「もう治癒したと思っていたのに……。」家族に申し訳ない気持ちで、いっぱいになりました。息が詰まるほどの葛藤がありましたが、前に進まないと何も始まりません。発病当時からお世話になっている先生に連絡をとり、すぐに入院して腫瘍箇所を切除する手術を受けました。骨までには至っていなかったので、3週間ほどで退院することができました。その後3年が経過して、次女も授かりました。


しかし、出産後にまた再発したのです。すぐに腫瘍摘出の手術を受けましたが、その後は半年おきに同じ手術を3回繰り返すことになりました。もぐら叩き状態でした。二人の母親として、子供を預けての入退院は身が裂かれる思いです。

腫瘍の性質も『骨肉腫』に変化しており、大腿部から切断しないと命とりになることを聞かされました。真っ先に子供の顔が浮かび、私が切断を決断するまでは時間はかかりませんでした。

「不自由にはなるけれど、これで命を守ることができ、家族と共に生きて行けるのなら希望が持てる。」と思いました。

切断後は、失った足の幻肢痛(まぼろしの痛み)に悩まされました。筋力のない足に義足をつけての生活は、想像以上に大変でした。

そんななか、外出を控え消極的になっていた私を励まし、外の空気を吸いに連れ出してくれたのは主人でした。私は主人のおおらかさにいつも救われました。子供も私を成長させてくれました。当時2歳と5歳の子供は、天真爛漫でした。無邪気でした。私もへこんでしまう時間などありません。その無邪気さに救われて、我を忘れて必死で子育てに奮闘しました。

幼稚園、学校行事にもできる限り参加しました。入退院を繰り返していた私には、子供と共有できる時間が楽しく嬉しい時でした。


ところが、切断から6年経過した検診で、『肺転移』が見つかりました。

この時ばかりは、体中の震えが止まらず心のコントロールをすることが、できませんでした。「何が悪かったのだろうか?」自分を責める気持ちがばかりが大きくなりました。何度も同じことを考えてしまい、なかなか暗いトンネルから抜け出すことができませんでした。

しかし、大好きな家族が私の健康を心から思ってくれている。という力強い事実が、私に光を求めさせてくれました。

「最善の治療方法は何なのか?」と気が焦りましたが、石にかじりついてでも見つけ出す覚悟でした。

今までの整形外科の主治医は素晴らしい先生でしたが、今度は『肺転移』なので診察する科が変わります。

その時、頭の中に以前診察を受けたことがある北海道がんセンター放射線治療科の西尾先生が浮かびました。親身に相談に応じて下さったあの記憶が強く心に残っていました。大きな期待と信頼を胸に、すぐに西尾先生の診察を予約しました。

西尾先生は、私が二人の子供の母親だと知ると、「とにかく最善を尽くさなくてはいけない。」とおっしゃって下さり、治療方針を模索して下さいました。その力強いお言葉が、どれほど胸に響いたか今でも忘れません。

心から私を救ってあげたいという意思が伝わってくるのです。当時、北海道には、まだ入っていない陽子線治療の事も他の病院に問い合わせ調べて下さいました。あの放射線治療科の廊下を速足で何度も往復して、多方面から調べてくださいました。

私は廊下で待ちながら、西尾先生の熱意に背中を押され「絶対に治す。治る。」というエネルギーが沸々とわいてきたのを覚えています。待ったなしで、呼吸器外科の診察と放射線治療が始まりました。先生から手術の説明がありました。

「今までに症例がない難しく非常に技術が必要な手術になります。右肺の三分の一上葉部を切除して、胸を開けたままの状態でそこに直接放射線を当てます。一歩間違えれば危険も伴う手術ですが、直接肺に照射することで、癌細胞を死滅させる効果が期待できます。手術を決断するのは本人とご家族です。」と言われました。「命の危険と隣り合わせ……。」という言葉に主人と私は迷いました。しかし、私の為に放射線治療科の西尾先生(現・名誉院長)と呼吸器外科の近藤啓史先生(現・院長)というトップの先生方が最強のチームを組んで手術をして下さる。こんな有難いお話は他ではありえないことです。先生に全てを委ねることにしました。

手術は長時間に及びましたが、大成功したとの結果をお聞きし、主人と私は喜びでいっぱいでした。この時に執刀して下さった近藤先生や西尾先生は、のちに外来でも、いつも真剣に向き合ってくださいました。時には人生の歩み方を教えていただき、出会えたことに心より感謝しています。


あの画期的な手術、治療から14年が経ちました。治療は手術前に外から放射線を照射し、その後に転移した肺の病巣を切除しました。ただ背骨にへばりついている病巣は完全に切除できないため手術中に残存の可能性のある部位にチューブを置いて、放射線を出す小さな線源で中から照射を追加したそうです。放射線は効きにくい骨肉腫に対して、通常のがん治療のほぼ倍の線量を照射する特別な工夫をしてくれたのです。こんな特殊な方法で転移巣を治療したのです。幸い、新たな転移はそれ以降おこらず、14年経過しています。私に生きる活力をくれた二人の子供も成人して思いやりのある娘に成長しました。

本来なら骨肉腫で肺にまで転移した場合、余命は限られているそうです。

私は、北海道がんセンターの医療チームスタッフにより、最高の知識と技術と熱意で命を救っていただきました。

皆様に感謝をしながら、今を大切に生きています。有難いことにチームで手術に同席しておられた先生が今は主治医になってくださっています。

後にも先にも、あのような画期的な手術は未だかつてないと伺っています。

「病気にならない」に越した事はありませんが、私は病気を通じて沢山の人の思いやりに触れることができました。紆余曲折があり苦労があったからこそ、今、生きている幸せを噛みしめています。また、同じく病気を抱えている人の気持ちが痛いほどわかるようにもなりました。

私も闘病中、いつも前向きではいられませんでした。私は、よく人から「強いね」と」言われました。決して強くありません。落ち込むことが何度も何度もありました。ただ、自分で自分を励ます、すべは身につきました。病気になると人より痛い思いをします。

そして、それ以上に心が辛くなります。これは、経験した人でなければわかりません。だからこそ、気持ちだけは明るくしないと報われないと思うのです。

笑顔は免疫力をあげます。わかっていても切断した直後はなかなか笑えませんでした。だから私は演技で笑っていました。演技でも脳が騙されて、免疫があがると聞いたからです。最初は演技でしたが、深刻になっているより徐々に気が楽になっていったのです。

私は障害があることで、出来なくなったことが沢山あります。ですが、心の扉をゆるく開けることで、沢山の良いご縁に恵まれました。

かけがえのない、愛する家族と一緒に時を刻み、いつもさりげなく手を差し伸べてくれる大切な知人友人に出会いました。心から感謝しています。

私は沢山の人達から貰った愛情を糧として、これからも実り多い人生になるように頑張っていきたいと思います。

<当時主治医だった西尾正道からのコメント>

朴さん、闘病の記録をまとめて頂き、有難うございます。そして何よりも14年経過して健康に日常生活を送られていることを嬉しく思います。また患者さんにとってご主人やお子さんなどの家族の存在がどんなに「生きる」ことへの支えとなるかを教えてくれているように思います。

折角ですから、私もコメントを付け加えさせて頂きます。

骨肉腫は放射線感受性が低く、通常のX線による放射線治療の適応にはなりません。通常の扁平上皮癌や腺癌の治療では副作用との兼ね合いで60〜70Gy程度の線量を照射しますが、骨肉腫はこの程度の線量では制御できません。また肺転移病巣は胸椎の骨に癒着していた(図1)。

図1 肺転移病巣の状態
図1 肺転移病巣の状態

このため、治療はまず55Gy/22F/5.5週(一回2Gy週5回照射の通常分割照射では60Gy相当)の外部照射を行なった(図2)。

その後、胸部外科の近藤啓史先生(現北海道がんセンター院長)に手術をお願いしました。

図2 外部照射の線量分布
図2 外部照射の線量分布

肺転移の病巣は脊椎に癒着し浸潤していたため、完全に切除できない可能性を考え、術中にイリジウム線源によるRALS(遠隔操作式小線源治療装置)で切除断端の残存病巣に小線源治療50Gyを追加照射しました。したがって合計110Gyの線量が照射されたことになります。実際には小線源治療の線量は線源から10mm(切除断端5mm深部の距離)での50Gyですので標的内の残存腫瘍部位はそれ以上の線量が照射されていますので、110Gy以上の線量で骨肉腫を制御したことになります。

図3 2002.12.13.術中組織内照射時写真
図3 2002.12.13.術中組織内照射時写真
切除後にガーゼを巻いた鉛板を脊髄をブロツクするために配置(A)し、1cm厚のポーラス剤の中心にRALS用チューブを配置(B)して、術中に組織内照射を行った(C)。

通常は肺転移した場合は深追いしても次々と転移が拡大することが多いので侵襲の強い治療は控えますし、深追いはしません。

しかし稀に少数転移(Oligometastases)で終わる人もいます。朴さんは幸い新病巣が出現しませんでした。朴さんの場合は20年来の闘病生活の中で、再発や転移が生じたとしても比較的長い期間を要していたことから、転移巣でも治療すれば長生きできる可能性を考え、つたない臨床医の判断でチャレンジしたものである。

こんな誰もやったことのない治療をしてでも何とか治したいと言う気持ちにさせるのは朴さん人柄なのでしょう。最もハッピーな患者さんと医師との出会いの一例だったと思います。

最後に治療後のX線写真とCT像を示します。

図4 治療後の胸部正面X線単純写真とCT画像
図4 治療後の胸部正面X線単純写真とCT画像


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