市民のためのがん治療の会
市民のためのがん治療の会
患者から
治療法をめぐる葛藤

『最後まであきらめなかった小線源による組織内照射』


市民のためのがん治療の会会員 田口 三雍
がんは “Only One Chance” 「最初が肝心、最初が全て」。 西尾先生の名言のひとつだ。 そう、主治医ともうまく行って治療も順調なら、患者会などに相談することはほとんどないだろう、どうしようもなくなって藁をもすがる思いで当会に相談されることが多い。 ただ、患者にとって治療法の選択は本当に大きな問題である。
田口さんの場合ももちろん命を救うことが第一だが、治療後のQOLをできるだけ確保したいことを考え、舌がんの小線源による組織内照射での治療を強く希望され、様々な障害を越えて信念を貫かれ、見事に治療に成功された。
治療法の選択に迷われる多くの患者や家族の皆さんにとって大変参考になる事例であり、田口さんにご協力いただき、治療に至るまでの葛藤、治療のあらましなどなどをご寄稿いただいた。
多くのみなさんのためにご協力いただいた田口さんに御礼申し上げます。
(會田 昭一郎)

2011年3月11日 東日本大震災発震 ここを境に人生が激変した。 与えられた情報を疑うことなく受け入れていた自分だったが、自分で調べ考える大切さが骨身に沁みた。 被曝から子どもを守るためにネットで情報を漁る毎日。 その頃、岩上安身氏主催のネットウェブジャーナル IWJを知る。


北海道がんセンター 院長(当時)であられた 西尾正道先生の沢山の熱い講演を何度も視聴し先生のお話される放射線の功罪、光と影、先生の患者第一の姿勢に心底感銘を受けて 先生の大ファンになる。 ある講演中に、「『市民のためのがん治療の会』のHPは有益な情報が載っているから週1遍は見てみなさい」と仰られたので即、検索、「お気に入り」に入れて……忘れていた。

2016年、息子の進学を契機に東京を引き払い九州に引っ越した。


発病;2017年9月頃から左舌横側に時々痛みを感じて気になって舌を見ていた。 丁度、虫歯治療を20年程前にした歯の横の部分だった。 やや赤味があるくらいで特段変化はなく、詰め物を変えてもらったほうが良いかな?良い歯医者さんを見つけなくては。。。とのんびり考えていた。


しかし、「その時」は突然来た。

11月28日、火曜日の朝。 いつものように息子と食事をしていたら 突然「痛ッ!!」と声が出る激痛が舌に走った。 そのまま洗面所に行き鏡を見た。 ---特に変化無い。があまりに痛いので初めて舌の裏側を見た。 小指の爪大のグレーな扁平の盛り上がりがあった。


えっ?!


医学部4年生の一人息子がソレを見た時の反応は一生忘れない。 普段は生意気言うか、オチャラけるかどっちかの彼が「今週中に必ず医者に行けよ!!」と切迫した声で言い放ち、ふら~っと2、3歩歩いて

「俺、何やってるんだろう」と狼狽した様子で登校した。 息子の様子から「舌癌かもしれない、早く受診しなくては」と心を決めて自分も出勤した。 自分が小学3年の時に祖母を舌癌で亡くしていた。 その当時はコバルト照射を受けて「痛い、痛い」と訴えていた、と母から聞いた記憶がある。


熊本に来て3年目。 縁故無く誰に聞けばよいかも皆目分からない。 まず紹介状をもらってから、と職場の近医を昼休みに受診したが「舌の荒れでしょう」と紹介状もらえず、歯科も心当たり無し。

今週中、今週中、が頭の中でぐるぐる回り、帰宅後食事も忘れネット検索。

あった! 1つだけ!紹介状、予約不要、木曜日午後診察の森都病院口腔外科。


11月30日、木曜日午後受診。 熊大で教えておられたDrが、一瞥して「熊大病院に紹介状を書きましょう。 あちらのほうが検査設備が整っている」と仰った。 「舌癌ですか?」と聞くと「分かっているならお話しますが、そうです。 なるべく早く検査したほうが良いので、私が予約を取りましょう」と本当にご親切に手配をして下さった。 最速の日程、12月4日検査 が決まり福岡で両親の世話をしている夫に連絡をした。


当日は夫が同席してくれた、診断結果は「舌癌」。

自分はどうしても舌を切りたくなかったので先生に「セカンドオピニオン希望です」と申し出た。 息子が熊大医学生ということもあってか先生は快諾してくれた。


息子の卒業まであと2年。 無事に卒業させないと自分がここに来た意味が無くなる、老老介護中の老親に先立つ親不孝は絶対にできない、心配させられない、話せない。 なんとしても形状維持で5年元気に生活しなくてはいけない。 必死だった。


診断を受けて、西尾先生がお話されていた『市民のためのがん治療の会』を思い出し、自宅に帰り着くなり何年ぶりかでアクセスした。 今回はわが身に降りかかった火の粉、マサニ必死だった。


会代表の會田様宛てに、不躾にもいきなり本音メールを初回に送ってしまった。 驚くことに即座に返信がきて「セカンドオピニオンには入会が必要だが、手続きは後で良い。急ぎ患部の写真を送って下さい」

息子が不在で必死の思いで舌を出し裏側を自撮りして送ったが、即NG。 「診断にはもっとクリアな写真が必要です。命が懸かっていますから息子さんが帰宅しだい写真を撮って送って下さい」


突然のメール1本で、海のものとも山のものともつかぬ人間に心の底から心配し、かつ躊躇を許さない凛とした指示を下さるこの人はいったいどのようなお方だろうか?心強かったし、有難さがふつふつと湧いて来た。


クリアな写真(腫瘤は約1.5cmx1cmの大きさです。 主観ですが水曜日に確認した時よりも腫れが大きくなっているような印象を受けます。 膨隆部の頂上にくぼみがあり)を送ったら時間をおかずに今度は西尾先生から「小線源治療も切除もどちらでも可能。 患部が舌奥のため切除はやや難度が高いがギリギリ縫縮が起こるくらいと考えられます。 九州には小線源治療を行っている施設はありません」との回答を頂いた。


熊大病院でのスケジュールは検査入院12/11~、そのまま年内手術12/20へ、12/13 年内手術申し込み最終日。 とんとん拍子に決まっていく中で涙を流す余裕は無かった。


相談時の患部写真

戦う相手は息子だった。 毎晩向かい合っての夕食の際に上目遣いに時々私の様子を盗み見してくる。 「心配かけて悪いな」と思いつつ明るく平静を装う。 息子「どうするの?」「早く切ったほうが良いよ」「年内にしてもらえる。小線源は早くても年明けだろう、今なら、治る、切れば治る」


「早く切れば直ると分かっているガンを最短で切れる状況になっているのにわざわざ小線源治療する利点が分からない。 何かあれば何時でも北海道に行かなければならない。 ガンが深部に進んでいるなら小線源治療もありかとは思うが、それでも何かあった時に『どうして止めなかったか』という後悔と自責の念は俺に残ると思う。」と訴える。


彼の気持ちは痛いほど分かる、されど小線源治療への思いを絶つこともできず本当に苦しい思いの毎日が続いた。 最後は「私の体。後悔はできない。」がん細胞の浸潤の深さによって切除範囲が決まるので手術台に上がらないと分からないのだ。


「舌切りはいやだ!小線源治療を受けたい。」

毎晩の「切れ!」「嫌だ!」バトルを経てとうとう根負けした息子が「年内なら小線源治療」を了解してくれた。


ここから本当の葛藤が始まった。 自分には小線源治療の選択肢しかありえなかったのだが、果たしてその治療をして頂けるのか…?入院日の11日が近づいてくるのに音沙汰が無かった。 9日携帯に着信通知があった。知らない電話番号でこちらから掛けるのが怖くそのままにしていた。


熊大入院中にアノ電話番号にもしや?と掛けてみた。 なんと!西尾先生その方と電話でお話ができ

「九州からわざわざ北海道に来なくても良いよ、北海道に住んでるならおいでというが…どうしても北海道に来るならしてあげましょう。 最速で12月14日午後。または12月18日(月)入院、19日処置」とお返事を頂いた。

やった!熊大のオペより早い日程!!神様ありがとう! 喜びのあまり3cmほど浮き上がって病院の廊下を歩いていた。


年内オペのスケジュールをねじ込んで下さった熊大病院の先生方に心で詫びつつ、12/15緊急退院。


診断はT1N0M0(がんのTNM分類で、T1:1期のがん、N0:転移なし、M0:遠隔転移なしの意)


スマホのお蔭で病院のベッドから飛行機の便を予約。 天候で飛行機が飛べなくても困らない様に前泊の予約も済ませた。 九州からはるばる北海道へ、普通はちょっと考えるのかもしれないが、時間もお金も自分は全く気にしなかった。 あの世に行ってお金が使えるわけでもない「自分で稼いだお金は自分で納得がいくように使う」。 「治る」、ことに全力を注いでいた。


12月17日単身北海道入り、生まれて初めての白い大きな大地。 南国生まれの南国育ち、車窓の風景は命の輝きに見えた。


12月17日夜。 舌の腫瘍は10日ほどの間に大きくなり(2cm超)、痛みも増した。 自分でもそのスピードがヤバイと感じていた。 入院前の最初で最後の北海道の食事、ジンギスカンを食べたくて「今食べずに、何時食べる?多少舌が痛くても、今でしょ!」と初めての雪道をソロリソロリとへっぴり腰で有名な松尾ジンギスカンに行く。 途中、横断歩道に「ご自由にお使い下さい」と撒き石みたいなものを見てそれも珍しかった。


12月18日見事に積もった雪を見てホテルの方にタクシーを呼んでもらう。 大きな荷物を転がしていよいよ北海道がんセンターの受付を済ませ放射線科の前の長椅子で順番を待っていた。 憧れのその人が黒のロングダウンコートを着て歩いてこられた。


「ああ!西尾先生!!」病の不安は完全に吹っ飛び、ときめいた。 嬉しさしかなかった。

「熊本の田口です、このたびは大変お世話になります」と挨拶すると「ああ、熊本からの田口さん」と仰って患部を診察して下さった。 主治医は西山先生。 日本で被曝量ワンツートップの先生方。 あすの手術の説明を丁寧にして下さった。 不安無く看護師さん方も親切で心身ともに充実感があった。


12月19日14:00経鼻、点滴のチューブをつけた状態で手術室に入り、幅が狭く高い手術台に踏み台を踏んで上がる。 局所麻酔。 西山先生、西川先生それに西尾先生と3先生方がお揃いで和やかな雰囲気。 無事に処置が済み放射線遮蔽の特別室に戻る。これから丸5日間、自分で点滴、経鼻栄養、唾液の吸引をする。 看護師さんの被曝を最小限にするため、顔を見ることも無い。 ただモニターで24時間見守ってくれている。 舌を動かすとセシウム針が抜けることがある為、唾は飲まず、会話は筆談だった。


1日2回 先生が針の位置確認と患部以外の被曝線量を下げるためのガーゼ交換に来て下さった。 先生は被曝前提の医療行為。 毎回申し訳なく身の縮む思いがした。 西尾先生も雪の中、遮蔽室に様子を見に来て下さった。 先生の指先は冷たかったが、温かかった。


水が飲みたい。水が飲みたい。口が痛い。


唾液はティッシュで拭くか、吸引するかしかない。 自分は眼圧の関係で唾液分泌を抑える薬が使えず苦労した。 もう限界…


放射線隔離室で経鼻栄養管と唾液吸引管装着して

12月23日いよいよ抜去の日。 土曜日の休日にも拘らず再び西尾先生、西山先生、西川先生が揃われて無事に全てのセシウム針が抜かれた。 「98%はこれで治ります。あとの2%はガンも変わった奴がいるから100%と言えないんだ」西尾先生のお言葉が嬉しく思わず抱きついてしまった。


口内の炎症があり舌も痛かったが12月27日に無事退院。 これからしばらくの間、フォローアップに北海道通いが続く。 1年目は3ヶ月に1度。 初回の受診日を決める際に「う~~ん どうしましょうか、北海道が1番寒い2月末」と先生が悩んだ末に2月26日となった。 先生の説明を聞くために来てくれた息子と帰熊した。 舌が痛いため、道中の食事に難儀した。 札幌でウニ雑炊、博多で麦とろ飯を食べた。 味は分からず左舌に触らぬ様に頭を大きく右に傾げて飲み込んだ。 しかし、老親や姉に今まで通り電話で話せる!舌はそのままの形、切っていない。 この喜びは何物にも換えがたかった。


疼痛を自覚した朝から丸1ヶ月の出来事だった。 本当に、必死の思いで疾走したが、本当に沢山の方々のお力添えで無事にゴールできた。 涙を流しながら市民のためのがん治療の会、會田様にメールをしたこともあった。 その度に必ず思いやりの溢れる、心の傷や不安をほんわりと包む応援メールを頂いた。 この病にかかるまでここまで他人の為に深い愛情を注げる方がいるとは思わなかった。 とてもこの感謝の気持ちを表せる言葉は無い。


1ヶ月の自宅療養の後、2月に復職。 皆が心配してくれて復帰を祝ってくれた。 食事は野菜スープとおかゆ。 息子の食事を別に作るのが少し苦痛だった。 味覚が戻らないので味見を必ず息子に頼んだ。


初めてのフォローアップ。 2月26日の北海道は厳しい寒さで歩道には厚い氷の壁ができていた。 一人の歩く僅かの幅だけ氷が薄い。 じゃりっ、じゃりっ。 慎重に歩いていたが、たまたま同道した方に「もう少し寄ってあげよう」と迂闊にもつるんつるんに足をかけてしまった。 無防備に地面が回転した。 病院の玄関先だった。


全身を受け止めた右手手首がくの字に曲がって痛い、ひじが曲げられずどうしようもなかった。 放射線科の受付で転倒、骨折の可能性を訴えるとすぐにレントゲンを撮ってくれた。 結果「骨折です」西川先生が申し訳なさそうに教えてくれ整形の先生に特別に診て貰えるように取り計らってくれた。 癌の専門病院のため一般の疾患は診察しない という決まりがあるのだそう。


折れた骨を元の位置に戻す。 先生と看護師さんと自分の3人で脂汗を流しながら何度も手を引っ張って、固定してくれた。 余分なアクシデントの後のCT検査。 軽妙洒脱な西山先生の画像を見る目がやけに真剣。 これはまずいかも。。。


西川先生も合流して「これはネグってるよね」と何度か確認。 結果「頚部リンパ節転移があります。この中が黒い丸がそう、画像からはまだ1個です。 早く取っちゃった方が良いと思います。綺麗な先生がいるからその先生にお願いしましょう」泣きっ面に蜂、とはこういう状況か。 持って帰るわけには行かないから早いうちにお願いしよう。 と、ただ転移が1個しかない状況での受診と発見は西山先生のフォローアップの絶妙さだと心から感謝。 そのまま頭頚部外科という聞き慣れない科に行った。 担当の永橋先生の手術空き日が3月7日だったので、そのまま入院。


癌専門病院内で肩からギブスをつけている患者は自分だけ、皆から珍しがられ熊本から来て骨折、入院の経緯で気の毒がってもらえた。 短い間に友達が数人出来た。


3月6日には田口が福岡から北海道に来てくれた。 術前の説明と立会い。遠路はるばるで彼には申し訳なかったが、有難く心強かった。 3月7日14時開始予定の手術は少し遅れて始まった。 説明では全身麻酔で3時間目安とのことだったが実際は2時間ほど長く掛かった。 放射線の影響で頚部の組織が硬くなっていた為。


熊大の説明で放射線治療後の弊害で組織が硬くなり再発時のオペが難しくなる、と聞いていたので「そうか」、と納得した。 術後の痛み止めの影響で吐き気が酷く半日吐き続けて中止した。 まる2日の絶食でフラフラ、術後食はリンパ液の滲出を増やさないためたんぱく質無し、重湯とだし汁が3食のメニューだった。 カロリー不足で低血糖が起こり先生に相談して砂糖湯を飲んで凌いだ。 右手は肩からギブス固定、左手だけが頼りだった。


予想外のことは術後に口が開け難くなったこと。 鏡に映る自分は別人のように腫れて「アンパンマン」数日後には「食パンマン」に変身していた。 それもあってか、開口はプラスチックのスプーンがやっと入る程度で痛み止めのカロナールの錠剤が飲めず調剤された結晶をスプーンに載せ重湯で飲み込みやすくし流し込んだ。 数日経っても良くならないので先生に相談して歯科受診。 マッサージ法の指導を受けマウスピースを作っていただいた。


頚部の繊細な部位のリンパ節郭清。 計7個取って細胞生検の結果は1週間後に分かる。 CT検査では1個のみ転移だったが、もっと一杯転移していたら…夜一人になると不安になった。


友達が、「永橋先生は凄い」と首をびゅんびゅん振った。 彼女は先に地元の病院で2度頚部郭清を受けていたが、今回の手術では首が全然痛くないと喜んでいた。 ただアドバイスとして「首を冷やさないこと、風に当てないことよ、きゅ~と縮んで痛むから、田口さん」と退院されていった。


右手の骨折は術後1週間でレントゲンを撮り、再修復。 くっつきかけた骨が曲がっていたので力技で振り出しに戻る。 あまりの痛みに中止していた強めの痛み止めを飲んだ。 看護師さんも「再修復」と聞いて皆気の毒がってくれた。


順調に傷は回復して退院の日が近づいてきた。 北海道の春は遅い。 雪が解けた、と思っても朝カーテンを開けるとまた雪が積もっている。 帰路で転ぶともう救いが無いので外出許可を貰ってどの道の雪が少ないか退院前にチェックした。


3月24日、退院を祝うような暖かい晴天の日となった。 右腕のギブスは変わらずで袖が通らない為、病衣を借りて機上の人になった。 一カ月ぶりに息子に再会、「綺麗だ!」と言いつつ近寄ってきた。 まじ~?!と内心喜んだが、あれ?目が?合わない。 見てるところが…ちがう


彼の目を釘付けにしていたのは頚のオペ痕だった。 「熊大にはこんな綺麗な人はいないよ。凄い先生!神じゃん」と非常に感激していた。 彼の興奮を見て初めて先生の技の凄さを実感し、改めて先生に感謝した。

現在は味覚も戻り、カレーもしっかり美味しく食べられる様になった。 ただ舌苔が厚くいくらケアしても良くならない状態が続いていた。 骨折の治りが悪く熊本で骨切りの手術を受けた。 その骨を早く直そうとたまたま珪素を摂り始めたらすぐに骨がつき、おまけに舌苔が薄くなり舌炎の痛みもほとんど無くなり感謝の毎日を送っている。


その後のフォローアップ時に西尾先生にお目にかかり直接アドバイスを頂く幸運に恵まれている。

  • ①小線源治療の数年後に晩発障害で舌に潰瘍ができることがある。 が腫瘍の可能性は低い。 切ってしまったら組織再生力が落ちているから戻らない。 しっかり診てもらいなさい。
  • ②10年位すると不幸にして4%くらいの確率で小線源治療の被曝によって惹起された舌癌ができることがある。 2度同じ部位への小線源治療は認められていないので早期に小さい内に切除しなさい。
  • ③年齢が若く、リンパ節転移があった場合は肺に転移する可能性が結構高いからしっかり検査をしなさい。

まだまだ、私のがん患者歴は1年。 待望の「完治」を貰うには4年近くの歳月がかかります。 楽観主義の私ですが、さすがに北海道行きの前は「行ったきり帰ってこられない状況に陥ってしまったら……」といった不安が募る。 とにかく、今の目標は、5年健康な生活を送ることです。

私の場合、がんと診断され、大きなショックを受けたなかでも「セカンドオピニオンを貰う」ことを忘れず実行したのがよかったと思います。 内科的治療ではそれぞれの治療法が大きく異なるケースは少ないと思います。 一方、外科的治療では術式が異なると体への負担・後遺症が大きく違ってきます。


がんの標準治療は大きく、抗がん剤治療、外科的手術、放射線治療の3通り。 この3つを主治医が横断的に熟知されているのであれば、それぞれの長所・短所を説明してくれると思うのですが、現実にそれは難しいように思います。 がんと一口に言っても、放射線がよく効くがん種もあり、適切な治療法を受けさえすれば、低侵襲でQOL(生活の質)の低下を最小限に食い止め、かつ治癒が望めるケースも多くあります。 私の体験が少しでも皆様のお役に立ち希望と信念を持って治療を選択される助けとなれば本望です。


『放射線科の医師のセカンドオピニオンを貰うことは本当に大切だと思います。』


現在の健康と幸福にお導き下さいました「市民のためのがん治療の会」の會田様、西尾先生、直接診療して下さいました先生方に心底より感謝申し上げると共に益々のご健康をお祈り申し上げます。

ありがとうございました。

<補遺>

小線源治療に関して追加

西尾先生が講演会でお話されていたようにセシウム針の製造が何年か前に中止され、現存のセシウム針の放射線量は6割に減衰している。 同じ有効量の線量を照射するためには使用する針を増やして密に刺す必要がある。

医師の被曝が避けられ無い上、医療点数が極めて低く治療法としては非常に有効であるが絶滅危惧種。


自分は西山先生に「絶好の時期になりましたね」と言われました。

もう1点小線源治療をして頂いて良かった、と感じることはリンパ節転移が分かった時に始めて郭清術を受ける、という時間差です。 舌の切除の場合なら特に説明無く麻酔から目覚めると舌と頚部のリンパ節郭清が同時に行われている可能性があることです。 物は考えようで全身麻酔1回で済んだ。 と考えられる場合は幸せですが、自分なら「聞いてなかった」と不自由を嘆き医師に対して不信感を強く抱くと思います。 外科的治療と小線源治療の有効性は同等です。 術前の説明でしっかりとこの点を確認されることをお勧めします。

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