
碩学の語る医療の神髄
『患者が分かるカルテを書く』
都島放射線科クリニック 名誉院長
大阪大学 名誉教授
井上俊彦
大阪大学 名誉教授
井上俊彦
井上俊彦先生は、西尾先生が「先生」と尊敬される放射線治療の泰斗だ。そのような先生に、医療の根幹に触れたご寄稿をいただき、編集子としては冥利に尽きます。
多くの研鑽、臨床、教育などの経験に裏付けられた碩学の言葉に、皆様も深い感銘を受けられることと思います。
(會田)
どの社会にも陰語が存在する。それを駆使することによって仲間入りを許され、仲間意識を強める。しかし、仲間以外に悟られないように工夫された言葉を使うことによって、他に比べて優れているとの錯覚に陥りやすいことも事実である。地域社会においても、閉鎖空間が狭まるほどに方言が多くなる。驚くことに、方言の水平分布だけでなく、垂直分布も確認されると言われる。この方言は地域特有の文化を伝承する力でもある。したがって、決してそれを否定するものではない。医師になりたてのころ、先輩の言葉をまねて、OKKとかKKKとかZKとかLKとかMKとかMMKと云っては、一端の医者になったつもりでいた。ところが、この符牒は今の若い医者仲間には伝わらないことがある。
最近は、聞き慣れない見慣れない言葉に行き当たると、インターネットで検索する。業界が違うと、省略語はとんでもない意味になる。先日使い慣れたPCSを調べたところ、パナマ運河の通行料、バーコード用語、北米携帯電話サービス、フィギュアスケートにおける採点基準の構成点、から始まって10分近くも見続けたが、行きあたらない。PCS (Patterns of Care Study) と打ち込むと、見慣れた事項が出てきた。よくこれで、他学会の先生方を前にして講演をしてきたものだと、今更ながらに自分の無知に驚かされた。保険審査を担当される先輩の外科医から、最近レセプトに出てくる放射線治療の言葉に意味不明のことが多くて困ると言われた。事あるごとに、分かる言葉で書くよう皆さんに提言してくださいと言われた。確かに近年急速に進化する放射線治療の臨床現場では、耳慣れない言葉が次々と登場してくる。そして、消えていくのも事実である。
都島放射線科クリニックでは初診患者の病歴準備を二人の医療秘書が担当している。彼女たちは医療情報提供書、検査データ、画像データのみならず、検査依頼書の文字からも必要な情報を収集する。前後の脈絡から記載内容に疑問が生じると、追加情報を依頼元に請求する。それは病理組織検査記録であったり、手術記録であったりする。あるいは患者本人のメモが正確なこともある。当院での診療までの待機時間の多くは病歴情報の不備を補う作業に求められる。依頼医が病歴を正しく、簡潔にまとめていただいていれば、この時間のロスは解消される。
もうひとつ厄介なことは、各科専門医が使い慣れた省略語を使われることである。難しい横文字の医学用語が並ぶだけでも理解を不十分にさせるのに、新型装置であったり、商品名であったり、登場する省略語はお構いなしである。これらの言葉を分かりやすい日本語に直すのは担当医の診察前の準備の一つである。もっと大切なことは、その患者に真に必要な診療が何であるかを検討することである。院内での話し合いで分からなければ、依頼医に直接電話をして方針について話し合う。こうして準備されたカルテを見ながら、初診患者と面談する。患者と話しながら、カルテの不備を補ってゆく。時に、患者が「先生、違いますよ」と、私のミスタイプを指摘してくれる。それは取りも直さず、患者に分かるカルテに他ならない。ここまで終わって、やっと全身の診察を行い、患部の所見をまとめる。「2週間も入院していたのに、担当医や看護師に腹部を診てもらったことはなかった」あるいは、「聴診器をあててもらったのは、何年ぶりだった」と云われると、私は化石人間になったように思うことがある。でも、股関節部の小さな手術痕から、骨シンチ検査による大腿骨頭転移が誤診であり、初回根治照射の機会を失していた中咽頭癌ⅣC期症例(実はⅣA期)を8カ月遅れではあるが、正規の治療コースに戻せたこともある。
現役教授時代に、裁判の鑑定を引き受けたことがある。鑑定書類として届けられた当時の手書きカルテの難解な文字を判読する作業に加えて、職種によって独特の省略語が使われていたことも一苦労であった。一人の患者に対する同じ医療チームの診療記録であるのに、方言なみの違いがあった。患者の状態を医療チーム内で分かりあえる言葉で記録されていなかったことに事件の謎を解く鍵はあった。治療装置から出力された無味乾燥この上ない数値データで裏付けされた。これを指摘することで、事件の真相は明らかになり、和解に持ち込まれた。
さて冒頭に記した省略語は何かと言うと、上顎洞癌、喉頭癌、舌癌、肺癌、胃癌、乳癌のことである。同世代(水平方向)でも分からない言葉は、時間を異にする世界(垂直方向)では死語になりつつある。改めて、やたら省略語を使うものではないことを再確認した。ほぼ半世紀になろうかと云う今になって、省略語を使用しないように厳しく指導された恩師立入教授の教えを思い出しているのである。ところで、嬉しいことに時に患者に病歴のコピーを下さいと言われることがある。患者が分かるカルテを書きたいと私は日々努力している。
最近は、聞き慣れない見慣れない言葉に行き当たると、インターネットで検索する。業界が違うと、省略語はとんでもない意味になる。先日使い慣れたPCSを調べたところ、パナマ運河の通行料、バーコード用語、北米携帯電話サービス、フィギュアスケートにおける採点基準の構成点、から始まって10分近くも見続けたが、行きあたらない。PCS (Patterns of Care Study) と打ち込むと、見慣れた事項が出てきた。よくこれで、他学会の先生方を前にして講演をしてきたものだと、今更ながらに自分の無知に驚かされた。保険審査を担当される先輩の外科医から、最近レセプトに出てくる放射線治療の言葉に意味不明のことが多くて困ると言われた。事あるごとに、分かる言葉で書くよう皆さんに提言してくださいと言われた。確かに近年急速に進化する放射線治療の臨床現場では、耳慣れない言葉が次々と登場してくる。そして、消えていくのも事実である。
都島放射線科クリニックでは初診患者の病歴準備を二人の医療秘書が担当している。彼女たちは医療情報提供書、検査データ、画像データのみならず、検査依頼書の文字からも必要な情報を収集する。前後の脈絡から記載内容に疑問が生じると、追加情報を依頼元に請求する。それは病理組織検査記録であったり、手術記録であったりする。あるいは患者本人のメモが正確なこともある。当院での診療までの待機時間の多くは病歴情報の不備を補う作業に求められる。依頼医が病歴を正しく、簡潔にまとめていただいていれば、この時間のロスは解消される。
もうひとつ厄介なことは、各科専門医が使い慣れた省略語を使われることである。難しい横文字の医学用語が並ぶだけでも理解を不十分にさせるのに、新型装置であったり、商品名であったり、登場する省略語はお構いなしである。これらの言葉を分かりやすい日本語に直すのは担当医の診察前の準備の一つである。もっと大切なことは、その患者に真に必要な診療が何であるかを検討することである。院内での話し合いで分からなければ、依頼医に直接電話をして方針について話し合う。こうして準備されたカルテを見ながら、初診患者と面談する。患者と話しながら、カルテの不備を補ってゆく。時に、患者が「先生、違いますよ」と、私のミスタイプを指摘してくれる。それは取りも直さず、患者に分かるカルテに他ならない。ここまで終わって、やっと全身の診察を行い、患部の所見をまとめる。「2週間も入院していたのに、担当医や看護師に腹部を診てもらったことはなかった」あるいは、「聴診器をあててもらったのは、何年ぶりだった」と云われると、私は化石人間になったように思うことがある。でも、股関節部の小さな手術痕から、骨シンチ検査による大腿骨頭転移が誤診であり、初回根治照射の機会を失していた中咽頭癌ⅣC期症例(実はⅣA期)を8カ月遅れではあるが、正規の治療コースに戻せたこともある。
現役教授時代に、裁判の鑑定を引き受けたことがある。鑑定書類として届けられた当時の手書きカルテの難解な文字を判読する作業に加えて、職種によって独特の省略語が使われていたことも一苦労であった。一人の患者に対する同じ医療チームの診療記録であるのに、方言なみの違いがあった。患者の状態を医療チーム内で分かりあえる言葉で記録されていなかったことに事件の謎を解く鍵はあった。治療装置から出力された無味乾燥この上ない数値データで裏付けされた。これを指摘することで、事件の真相は明らかになり、和解に持ち込まれた。
さて冒頭に記した省略語は何かと言うと、上顎洞癌、喉頭癌、舌癌、肺癌、胃癌、乳癌のことである。同世代(水平方向)でも分からない言葉は、時間を異にする世界(垂直方向)では死語になりつつある。改めて、やたら省略語を使うものではないことを再確認した。ほぼ半世紀になろうかと云う今になって、省略語を使用しないように厳しく指導された恩師立入教授の教えを思い出しているのである。ところで、嬉しいことに時に患者に病歴のコピーを下さいと言われることがある。患者が分かるカルテを書きたいと私は日々努力している。


(「どこでもマイカルテ」竜崇正先生 )











略歴
井上 俊彦(いのうえ としひこ)
愛媛県生まれ。昭和39年大阪大学医学部卒業後、松山赤十字病院、大阪大学医学部講師、大阪府立成人病センター部長を経て平成 2年大阪大学大学院教授。平成15年大阪大学名誉教授、蘇生会総合病院名誉院長、NPO法人大阪粒子線癌治療研究会理事長を経て平成19年都島放射線科クリニック院長、平成23年同名誉院長、現職。この間国際放射線腫瘍学会理事、日本放射線腫瘍学会会長などを歴任。日本放射線腫瘍学会認定医、日本がん治療暫定教育医。医学博士。
愛媛県生まれ。昭和39年大阪大学医学部卒業後、松山赤十字病院、大阪大学医学部講師、大阪府立成人病センター部長を経て平成 2年大阪大学大学院教授。平成15年大阪大学名誉教授、蘇生会総合病院名誉院長、NPO法人大阪粒子線癌治療研究会理事長を経て平成19年都島放射線科クリニック院長、平成23年同名誉院長、現職。この間国際放射線腫瘍学会理事、日本放射線腫瘍学会会長などを歴任。日本放射線腫瘍学会認定医、日本がん治療暫定教育医。医学博士。