市民のためのがん治療の会
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アメリカの健康保険制度の問題は対岸の火事か

『オバマケア改廃案「下院通過」の衝撃(下)
「公約」を裏切った「改悪」の中身』


内科医師 大西 睦子
日本の国民皆保険制度をモデルにしたと言われるオバマケアは大統領選挙の争点の一つとなったが、結果はオバマケア廃止を標榜したトランプ大統領の誕生で、同大統領の提案するオバマケア代替法案「アメリカン・ヘルス・ケア・アクト(AHCA)」が僅差で下院を通過した。
日本でも国民皆保険の維持については大きな困難があるが、もしオバマケア代替法案が成立すると、彼我の国民性、諸制度等様々な違いを勘案しても、「対岸の火事」と考えていていいのだろうか。
今週は先週に引き続き大西睦子先生のレポートを転載させていただいた。

なお、この原稿はForesight 5月29日号からの転載http://www.fsight.jp/articles/-/42374
で、2017年6月26日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行  http://medg.jpに転載されたものをご許可を得て転載させていただきました、ご関係各位に深く御礼申し上げます。
(會田 昭一郎)

ワシントンに本部を置く、世界の人々の様々な問題意識に関する調査報告で知られるシンクタンク「ピュー研究所」の調査によると、 歴代の米大統領選において、大学の学位を持たない白人の票は、トランプ大統領が1980年以降で最も多かったそうです。 大学の学位を持たない白人の3分の2(67%)がトランプ氏を支持し、クリントン氏を支持したのはわずか28%でした。

こうした多くのトランプ支持者たちは、 トランプ大統領が選挙キャンペーン中に公約した「仕事(石炭産業や製造業)を取り戻す」ことに希望を抱いているのです。

なぜなら、米国で製造業が成長した時代は、労働者階級は安定した高い賃金を稼ぎ、労働組合による健康保険と退職金を受け取っていました。 その結果、家や車を買って、休暇をもつことができるようになりました。 ところが、この状況が劇的に変化し、製造業は高コスト(高賃金)の米国から次々と低コスト(低賃金)の拠点を探し始め、主に中国やメキシコに移転していきました。 結果、多くの米国人労働者階級は失業し、やりがいのない、低賃金の職につかざるをえなくなりました。 そうした不満が鬱積していた白人の低学歴労働者たちは、トランプ氏こそ自分たちの不満を解消してくれると信じ、投票したわけです。

【Behind Trump’s victory: Divisions by race, gender, education, Pew Research Center, Nov.9,2016】

●拙速な修正でギリギリ下院通過

しかし、トランプ大統領は彼らの期待に応えることはできるのでしょうか。 その点について『ワシントン・ポスト(WP)』は、トランプ大統領の政策は、実は彼の支持者に対してはあまり効果がなく、明らかにかえって傷つけると批判しています。

そのトランプ政策の代表的なものの1つが、医療保険制度改革法(通称オバマケア)の撤廃でした。 トランプ氏は大統領選キャンペーンで、「オバマケアを完全に廃止し、保険に加入したい人以外は、保険に加入する必要はない」と公約しました。 この公約に、低所得の中で保険料負担に喘いでいたトランプ支持者たちは熱狂しました。 ところが、キャンペーン中、トランプ氏は具体的な代替政策を示しませんでした。 それだけに、逆に支持者の期待は募り、トランプ氏を大統領へと押し上げる大きな原動力となりました。

そしてトランプ政権発足から2カ月後の3月6日、ようやく共和党下院指導部はオバマケア代替法案「アメリカン・ヘルス・ケア・アクト(AHCA)」を発表しました。

米連邦議会は現在、上下院とも共和党が過半数を確保しています。 もともとオバマケアには共和党の反対が強く、両院で制度の廃止を訴えることが予想されました。

ところが、下院共和党指導部は3月24日、党内の意見が一致せず、AHCAを議会で通過させるのに必要な賛成票を得られる見込みが立たなかったとして、 トランプ大統領の承認を得たうえで、採決の直前になってこの法案を取り下げました。 それどころか、『USA today』によると、ポール・ライアン下院議長は4月5日の時点で、オバマケアの撤廃には、数日ではなくまだ数カ月はかかるだろうと沈痛な面持ちで語ったそうです。

しかし結局、下院共和党指導部はさらにAHCAに若干の修正を加えて再提出。 そして5月4日、217対213というわずか4票の僅差で、下院で可決されました。 可決には少なくとも下院議員の過半数216票が必要だったところ、 民主党議員193人は全員反対票を入れたのは当然としても、共和党からも20人が造反しましたが、最終的に必要票を1票上回って可決となったのです。

【Americans are dying ‘deaths of despair.’ Will Trump help?, The Washington Post, Mar.25】
【In Major Defeat for Trump,Push to Repeal Health Law Fails,The New York Times, Mar.24】
【Speaker Paul Ryan says Republicans' Obamacare repeal may take months,USA Today, Apr.5】

●代替法案「これだけの改悪」

では、可決されたAHCAとは具体的にどんな内容なのでしょうか。 WPの記事を参考に、オバマケアとAHCAの主要な差異を見てみましょう。各項目に付した【変更ポイント】とは、筆者の個人的意見です。

オバマケア=国民に保険加入を義務付けた。

AHCA=未加入になってもいいが、再加入したいときはプレミアムとして30%の追加金を支払わねばならない。

【変更ポイント】=いったん未加入になると、多くの人が追加金を払えず再加入が厳しくなるでしょう。 また、保険加入が義務ではなくなり、加入者が減れば(特に若い人は保険に加入しないでしょう)、必然的に既加入者の保険料負担額が高まります。

オバマケア=所得、年齢、地域などに応じて、保険料の補助制度(タックス・クレジット)を設置した。また、保険会社は高齢者に、若者の最大3倍まで請求できる。

AHCA=所得や年齢に基づいて、州ごとに販売されている健康保険を自ら購入する。また、保険会社は高齢者に、若者の最大5倍まで請求できる。

【変更ポイント】=低所得者および中所得者への補助がなくなります。さらに、高齢者の保険料が高騰します。

オバマケア=個人として、毎月の給与から、医療費に使うための税控除を受けられる「医療貯蓄口座」に最大3400ドルまで、家族単位では6750ドルまで貯金することができる。

AHCA=同様に、個人は医療貯蓄口座に最大6550ドルまで、家族は最大1万3100ドル貯金することができる。

【変更ポイント】=富裕層がより多くの税控除を受けられることになります。同時に、政府の税収は減ることになり、公共サービスの悪化につながります。

オバマケア=保険会社は、既往歴によって保険料を引き上げたり保険加入を拒否することはできない。

AHCA=保険加入者がいったん未加入になり、その後再加入したとき、州ごとに、既往歴によって保険料を引き上げることができる。 ただし連邦政府は、病気の人の高い保険料の支援のために80億ドルの資金を調達する。

【変更ポイント】=米国では転職は日常的なことです。 職場が変わって保険が変わる場合でも、既往歴によって保険会社は保険料を引き上げることができます。 やりたい仕事が見つかっても、既往歴があると転職が難しくなります。

オバマケア=メディケイド(民間の医療保険に加入できない低所得者向けの公的医療制度)については、連邦政府が管理運営して、低所得者や身体障害者が利用できる。

AHCA=各州がそれぞれ独自に管理運営する。

【変更ポイント】=州によっては、貧しい人や女性、あるいは移民などを差別する可能性があります。

【What the new House Republican plan changes about Obamacare,WP, May.4】

●「オバマケアは死んだ」

ほかにも、オバマケアでは、保険会社は病院訪問やメンタルヘルスケアなど、定められた必須の医療保険をカバーすることが全米で義務付けられていました。 ところがAHCAは、各州で必須の医療条件を決めることができます。 つまり、州によっては、たとえばアルコールや薬物などの依存症のリハビリを保険でカバーすることを中止する保険会社が出てくる可能性があります。

また、AHCAでは、中絶や避妊薬の処方、 性病治療などを行っている医療サービスNGO「全米家族計画連盟(Planned Parenthood Federation of America=PPFA)」への政府からの援助(年間5億ドル以上)を1年以内に打ち切りにする、としています。 ただし、オバマケアでも人気のあった「26歳まで親の保険に加入できる」という特例は維持するとしています。

これらの改変が実現してしまうと、高齢者や低所得者や女性、あるいはすでに病気にかかっている人の医療費負担が増える可能性が高まります。 つまり、保険の必要な人が保険に入りにくくなってしまうのです。

実際、米議会予算局(CBO)は3月13日、もしAHCAが成立した場合、 2018年までに1400万人、2026年までには2400万人の米国人が新たに保険を失うことになるという試算を発表しました。

さらに続けて24日には、オバマケアを継続した場合の2026年時点での全米の無保険者数は2800万人にとどまるのに対し、 AHCA成立の場合、一挙に5100万人にまで激増するという試算も発表しています。

しかし、トランプ大統領はそうした試算にはおかまいなしで、 AHCAが下院を通過した際、ホワイトハウスでの会見で「要するに、オバマケアは死んだのだ」と自慢げに、高らかに宣言していました。

【American Health Care Act,CBO, Mar.13】

●支持者たちへの「裏切り」

こうした実態が明らかになるにつれ、トランプ大統領誕生のために熱心に支持してきた人たちの中には、早くも後悔している人たちが出始めています。 たとえば、選挙キャンペーン中、トランプ陣営のイベントに45回も参加したニューヨーク在住クレイグ・モスさんの話が『CNN』に紹介されていました。

クレイグさんの息子ロブ・モス(24歳)さんは、2014年1月にヘロインの過剰摂取で死亡しました。 選挙キャンペーンの演説で、トランプ大統領は中毒に直面している人たちのためのサービスを増やすことを公約しました。クレイグさんはその言葉を信じて、投票しました。 ところがAHCAを読むと、オバマケアでは31州でメディケイドの対象となっていた依存症ケアサービスとメンタルヘルスケアが、中止されることを知りました。 クレイグさんは、「この代替案は、トランプ大統領が選挙キャンペーンで私たちに約束していたことの完全な裏切りだ」と憤慨し、嘆いています。

さらにCNNは昨年末、ケンタッキー州の石炭産業の街で、トランプ支持者の様子を伝えていました。 元炭鉱労働者や家族は、オバマケアの廃止が現実となり、石炭じん肺へのオバマケアのサポートを失うことを心配していました。

オバマケアでの保険適用は、2014年1月1日から始まりました。 もちろん、まだまだ完璧な保険制度ではありませんでしたが、それでも米国での国民皆保険の実現への大きな一歩でした。 ところが、このままオバマケアが撤廃となりAHCAが成立すると、数千万人もの米国人の日常が混乱し、健康が守られず、生活が破綻する可能性があります。 そうなると、本稿(上)で触れた「絶望の死」を克服することなど叶わないでしょう。

AHCAの成立には、今後、上院での審議と票決が必要になります。 ただ、上院共和党指導部は、このAHCAにさらに修正を加えた代替案を検討中とも報じられています。 数の上では上院でも過半数を占めているとはいえ、現状のAHCAではさらに共和党内部からも反対者が出そうな雲行きだからと指摘されています。 果たして加えられる修正がどういう内容なのか、明らかになった段階で再びの検証が必要だと思います。

【Grieving father: 'I don't play Trump songs anymore',CNN, Mar.22】
【Miners could lose benefits if Obamacare nixed,CNN, Dec.27,2016】


大西 睦子(おおにし むつこ)

内科医師、米国マサチューセッツ州ケンブリッジ在住、医学博士。1970年、愛知県生まれ。 東京女子医科大学卒業後、同血液内科入局。国立がんセンター、東京大学医学部附属病院血液・腫瘍内科にて造血幹細胞移植の臨床研究に従事。 2007年4月からボストンのダナ・ファーバー癌研究所に留学し、ライフスタイルや食生活と病気の発生を疫学的に研究。 2008年4月から2013年12月末まで、ハーバード大学で、肥満や老化などに関する研究に従事。 ハーバード大学学部長賞を2度受賞。現在、星槎グループ医療・教育未来創生研究所ボストン支部の研究員として、日米共同研究を進めている。 著書に『カロリーゼロにだまされるな――本当は怖い人工甘味料の裏側』(ダイヤモンド社)。 『「カロリーゼロ」はかえって太る!』(講談社+α新書)。 『健康でいたければ「それ」は食べるな』(朝日新聞出版)などがある。
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