市民のためのがん治療の会
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『Virtual realityを応用した緩和ケアへの試み』


大阪大学大学院薬学研究科助教
仁木 一順
わたしはまだあのゴーグル型のヘッドセットを装着してバーチャルリアリティー体験をしたことがないが、 あのシステムを利用して移動が困難な患者に対して、「行きたい場所に行く」という疑似体験をしていただこうというユニークな試みが注目され、メディアなどでも注目されはじめている。
文科省のがん医療専門家の育成事業である「がん専門医療人材(がんプロフェッショナル)」養成プランの会議にお招きいただいた折に、 偶然、大阪大学で仁木先生とお話しする機会を得、緩和ケアにユニークな試みを実践しておられることを伺い、大変興味を惹かれた。
その後メディア等も着目しはじめ仁木先生のご研究も一定の成果を挙げられたようなので、ここでご多用の先生にご無理を申し上げ、ご寄稿をお願いした。
(會田 昭一郎)

釈迦に説法かもしれませんが、緩和ケアは、がんなどの疾患による問題に直面している患者さんやご家族に対し、 痛みやその他の身体的問題、心理社会的問題、スピリチュアルな問題を早期に同定し、適切な評価と治療によって苦痛の予防と緩和を行うことで生活の質(QOL)を改善する方法です。 ご存知のように、日本では現在の急速な高齢化を背景に、2人に1人ががんに罹患する時代に突入しております。 さらに、2017年には、国立がん研究センターによる大規模調査研究の結果を受け、厚生労働省が緩和医療の拡充について言及するなど、緩和ケアの重要性が現在高まっております。

緩和ケアを受けている患者さんの中には、痛みや倦怠感などの様々な症状によって行動が制限されたり、自立歩行が困難な状態の患者さんが少なからずおられます。 そのような患者さんが、病室から自宅や行きたい所に外出したいと望まれましても、緊急時でも対応できる医療サービスなどの支援体制整備に負担が伴うこともあり、 その実現が困難となってしまう場合もあります。 そこで私達は、患者さんの“行きたい場所に行く”という願いを、病室に居ながら疑似的にでも叶えられれば、QOLの改善につなげることができるのではないかと考え、 Virtual reality(VR)技術を応用したケアを試みております。

VRという言葉をテレビ番組やコマーシャルなどで目にしたことがある方がおられるかもしれません。 最近では特に、テーマパークやアミューズメント施設のアトラクションとして、VRはその認知度を高めているように思います。 VRは、このようなエンターテイメントツールとしての側面を持つ一方で、近年、医療への応用が世界中で熱心に進められています。

VRを文字で説明しますと、 「現物・実物ではないものの機能としての本質は同じであるような環境を、五感を含む感覚を刺激することにより理工学的に作り出す技術」ということになるのですが、 “百聞は一見に如かず”という言葉がございますように、以下の写真と動画をご覧いただき、イメージしていただければと思います。



動画をご覧になるには、以下のリンクにアクセスし、再生ボタンをクリックして下さい。
https://drive.google.com/open?id=1W3pF5EpKpEdIU2aUNVsAImyktg0O92Zu

この動画は、患者さんがVR空間の中で実際に見ている映像です。 パソコンの画面上ではどうしても2次元になってしまいますが、実際には、自分を取り巻く空間(360度)が全てこの風景となりますので、 あたかも“その場所に居る”かのような感覚になります。 この方は、バスの運転手をされていた方で、昔仕事でよく通っていた道をもう一度通りたいとご希望されていました。 その場所への思い出が強く、昔撮影したその道の写真を眺めながら、よくその頃に思いを馳せておられました。 ただ、そこは私のいる大阪からは遠く離れた某観光名所でしたので、VRで疑似外出(VR旅行)してみようということになりました。 この方は、VRは初めての経験だったのですが、VRヘッドセットを装着したとたん、その場所に居るかのような臨場感に「本当に○○におるみたいや」ととても驚いておられました。 そして、VR空間で昔の職場だった道路を散策しながら、「ここには○○という店があって良く観光客で賑わっていた」など、 活発に思い出をお話しされ、大変会話が弾んだことが強く印象に残っています。

私達は、VR旅行をしていただく前に、痛み、倦怠感などの代表的な症状や不安、気分の落ち込み、 幸福感などの気分が現在どの程度あるか(例えば、少し痛いなど)を患者さんに答えてもらいました。 そして、VR旅行後にも同じ質問に答えてもらい、その変化を調べました。VR旅行をされた合計20名の患者さんの回答を解析したところ、 痛み・だるさ・眠気・息苦しさ・気分の落ち込み・不安・全体的な調子がVR旅行によって有意に改善したという結果となりました。 また同時に、楽しみ・幸福感についても有意な改善が認められました。 その中でも、最も大きな効果があった項目が、“気分の落ち込み”でした。 一方で、吐き気・めまい・頭痛に関しては、20人中1名だけ「少し酔った」とおっしゃった方はおられましたが、この方は1時間と長時間連続してVR旅行をされ、 ご本人も「長くしすぎた」とおっしゃっておられました。 また、その酔いの程度は軽度で、VRヘッドセットを外して少し経つと回復し、吐き気止めの薬も必要ありませんでした。

私達はこのような結果から、VRを使ったケアは、高齢のがん患者さんでも重篤な副反応を引き起こすことなく、 患者さんのQOLの改善に貢献できる可能性があるのではないかと考えています。 私達の取り組みはまだ本当に初期段階ですので、安全性や有効性を確実に担保するためには、まだまだ多くの検証を重ねなければなりませんが、 将来的にこのような新しいテクノロジーを応用した手法が、緩和ケアを受けている患者さんのQOL改善に役立つ選択肢の一つとなるのではないかと期待しております。

ここでは、緩和ケアにおけるVRを用いた私達の取り組みをご紹介させていただきましたが、 世界を見渡しますと、精神症状や慢性疼痛を改善する手段の一つとしてVRやAR(拡張現実のことで、 2016年に大きな話題になりましたスマートフォンアプリ“Pokemon GO”に用いられている技術です)は大きく期待されており、 それらを使った新しいヘルスケアサービスを提供する企業も欧米で誕生し、現在大きな注目を集めています。 これらの技術の一部は、インターネット環境があれば使用できますので、 将来的にですが、医学的根拠が証明された治療を均一なレベルで世界中に迅速に普及できるのではないかとも期待されています。

しかしその一方で、注意しておくべきこともございます。 VRやARはスマートフォンでも体験できるため、利便性、汎用性に富むというのが素晴らしい長所なのですが、 同時に、医学的、科学的根拠が伴わないにもかかわらず、“治療”と謳ったアプリやコンテンツが世の中に出てしまうことが懸念されております。 そのようなことにならないように現在対策が考えられておりますが、ぜひお気を付けいただければと思います。

最後に、話が少し逸れてしまいますが、私がいる大阪では2025年に万博が開催されることが決定しました。 そのメインテーマは、「いのち輝く未来社会のデザイン」です。 大阪万博では、VRやARだけでなく、昨今聞かない日はないくらい巷を騒がせている“人工知能(AI)”など、21世紀の最先端技術を活用した医療の実現が目指されております。 現在、第4次産業革命の真最中といわれ、医療界も目まぐるしく変わっていますが、 その中で生きる医療人として、これらのテクノロジーと共存しながら最善の治療・ケアを提供できるように引き続き努力してまいりたいと思います。 長文になってしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。


仁木 一順(にき かずゆき)

2013年大阪大学薬学部薬学科(6年制)卒業後、大阪大学大学院薬学研究科 特任助教を経て助教(現職)2014年より市立芦屋病院薬剤科嘱託薬剤師(兼任)
【資格】
薬剤師免許、日本薬剤師研修センター認定薬剤師、日本在宅薬学会バイタルサイン講習会認定インストラクター
【受賞歴】
2014年 第30回国際薬剤疫学会(ICPE) スカラーシップ、2013年弟1回大阪大学薬友会賞若手奨励賞、2013年日本薬学会第132年会学生優秀発表賞
【主な所属学会・役職】
The European Association for Palliative Care (EAPC)(欧州緩和ケア学会)
日本緩和医療学会、日本緩和医療薬学会、日本がんサポーティブケア学会、日本サイコオンコロジー学会、日本在宅薬学会
【報道】
2018年12月 特集「平成はいま」VR,朝日新聞
2018年9月 バーチャルリアリティ(VR)やプロジェクトマッピングを用いたサポーティブケアへの挑戦 第三回日本がんサポーティブケア学会学術集会より, がん情報サイト「オンコロ」
2018年2月 「緩和病棟の患者に旅行の疑似体験を VR使い臨床研究」,朝日新聞
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