市民のためのがん治療の会
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『腫瘍循環器とは何か?』


日本腫瘍循環器学会理事長
東京大学大学院医学系研究科循環器内科学教授
小室 一成
前々回の「がん医療の今」では「がん患者が脳卒中を発症したら:Stroke Oncologyの取り組み」と題して杏林大学医学部脳卒中医学教授の平野照之先生にご寄稿いただきました。
ところで日本人の死亡原因の1位はがんで脳血管疾患は3位ですが、心疾患は2位です。 驚いたことに前々回ご紹介した脳血管疾患と共に、がん自体やその治療によって循環器疾患も発症しやすくなるのだそうです。
編集子自身舌がんになる3年ほど前に心筋梗塞を発症しました。 そのため心臓とがんの先生にお世話になっておりますが、心臓がんというのは極めて稀であるためか、心臓の先生はがんのことは分からないといわれ、がんの先生は心臓のことは全くわからないとおっしゃいます。 些かご謙遜の嫌いなきにしもあらずでしょうが、脳も心臓も障害が発生すると治療は一刻を争います。 それぞれの専門の先生方の連携がうまく行かないと、重大な結果を招来しかねません。
こうした問題を重視され、小室先生が中心になられ、日本腫瘍循環器学会を設立され、理事長に就任されました。
前々回の脳卒中とがんに続いてがん患者にとって大きな医学上の発展だと思われます。 ご研究が益々進展されますよう期待いたします。
ご多用の中、ご寄稿いただきました小室先生に心から御礼申し上げます。
(會田 昭一郎)

「腫瘍循環器」という言葉を聞いたことがありますか?一昔前までがん患者さんの予後は悪かったので、がん以外のことを考える余裕はありませんでした。 また循環器疾患とは心臓や血管の病気ですが、心臓や血管にがんができることはめったにありません。 そこでがんが我が国の死因の第一位で心血管疾患が第二位であるにも関わらず、がんと循環器疾患が一緒に起こることは少なかったのです。 私も40年間循環器医をしていますががん患者さんを診療することはめったになく、 あったとすると心臓や血管の検査をしていたら偶然がんが見つかった、抗がん薬治療を受けた人が心不全や肺血栓塞栓症になったなどですが、いずれもその頻度は決して多くありませんでした。 ところが近年がん治療の進歩によりがん患者さんの予後が大変良くなりました。 がん研究振興財団のがんの統計2022によると、がん患者さん全体の5年相対生存率は68.9%、10年相対生存率は58.9%と多くのがん種で予後は良くなっています。 一昔前までがんは不治の病と言われていましたが今では半数以上の患者さんが10年以上生存するのですからずいぶんと良くなりました。 しかしその結果登場した新しい問題ががん患者さんが循環器疾患を発症するといったことであり、それが「腫瘍循環器」です。 多くの循環器疾患、例えば心不全や心筋梗塞、心房細動、大動脈瘤、末梢動脈疾患などは高齢になればなるほど発症率が上昇するので、がん患者さんの寿命が延びれば当然循環器疾患を発症しやすくなります。 また実はがんと循環器疾患には加齢以外に喫煙や肥満、糖尿病など共通なリスクが存在するので、両方の疾患を発症してもおかしくないのです。 しかし今まではがんの予後が悪かったために循環器疾患が発症しなかったか、発症しても意識しなかっただけなのです。 またもっと重要で今回強調したいのは、がん自体やその治療によって循環器疾患を発症しやすくなるということです。 近年がん研究が進歩しがんの原因が大分明らかになってきました。 そこで原因に基づいた治療薬、いわゆる分子標的治療薬が毎年いくつも登場しています。 しかし新しい分子標的薬といえどもほとんどすべての抗がん薬が心臓や血管を傷害します。 その結果、抗がん薬治療によって高血圧や不整脈、虚血性心疾患、心不全、肺高血圧などほとんど全ての循環器疾患が起きうるのです。 とりわけアドリアマイシン心筋症とよばれるアントラサイクリン系薬剤による心不全は以前からよく知られており、 治療中ばかりでなく、時にはがんは克服したものの10年以上たってから重症な心不全を発症することがあります。 アドリアマイシンによる心不全はある程度総投与量によって決まるので最近では心不全にならないように投与量を制限しています。 しかしがんが治療に抵抗性であったり再発を繰り替えす場合などは、制限量を超えて使用せざるを得ないので心不全になる確率が高くなってしまいます。 アドリアマイシによって心不全を発症した場合は予後が大変不良であり心移植が必要となることもあります。 若い頃にがんになり、治療によってやっとがんは治ったと思ったら、今度は心不全になってしまったという患者さんを私は何人か拝見していますが、 その度にこのような患者さんを救わなければいけない、またこのような患者さんを一人でも少なくしたいと思い、後で述べる日本腫瘍循環器学会を作りました。 アドリアマイシンほど強くないものの、ほとんどの抗がん薬には心毒性があり、単独では強い心機能障害をもたらさないことも多いのですが、 高血圧などの合併症や心筋梗塞の既往などのある人やアドリアマイシンとの併用で心不全を発症します。 また高齢者は皆心不全予備軍ともいえるので高齢者に対する抗がん薬治療は十分な注意が必要ですし、小児期にがんの治療を受けた人は同胞の10~15倍虚血性心疾患や心不全を発症しやすくなるといわれています。 心臓は大変重要な臓器なので少々機能が低下しても体の代償機構が働くことによって症状が出ません。 しかし症状が出てからでは治療に反応しにくくなってしまうので、できるだけ早く心臓機能の低下を発見し治療を始めることが重要です。 そのためにも抗がん薬の治療を受けた方には定期的な心臓の経過観察をお勧めします。 がんによっては放射線治療が行われますが、放射線が心臓や血管に当たった場合は心臓や血管の細胞も傷害されるために、心不全や心筋梗塞になりやすくなります。 乳がんはがんの中でも比較的予後の良いがんですが、乳がん患者の経過について調べた研究では、発症後9年までは死因のトップは乳がんですが、 それ以降は循環器疾患で亡くなる人のほうが乳がんで亡くなる人よりも多くなるという結果が出ています。

もう一つがんと循環器疾患の重要な接点は血栓症です。 血栓症とは血液が固まって全身に飛び血管を閉塞してしまう病気です。 エコノミー症候群といったほうがわかりやすいかもしれませんが、例えば災害などで長時間車の中で寝泊まりしていると血液がよどむ結果、まずは足の静脈に血液の塊ができます。 それが飛んで大静脈から右心室に入り肺動脈を詰めると肺動脈血栓塞栓症となります。 高齢者が血栓塞栓症になったらがんを疑えというくらい、がん患者では血栓を作りやすいことは昔からよく知られています。 その理由は、がん細胞は様々なものを作って血液中に分泌するのですが、中には血液を固まりやすくするものがあるからです。 さらに抗がん薬の治療によってさらに血栓塞栓症が促進されることもあります。 また逆にがん患者さんは出血もしやすいため、がん患者さんの血栓塞栓症に対する治療は容易ではありません。 外来治療を受けているがん患者さんの死因の第2位、約10%は血栓塞栓症であるといったデータもあるくらいです。

がん患者さんが循環器疾患を発症することが増えたといった現象は世界的なものですが、世界一の高齢社会となった日本では腫瘍循環器学はとりわけ重要です。 そこで2017年循環器医と腫瘍医が連携して日本腫瘍循環器学会を設立しました。 日本腫瘍循環器学会では、腫瘍循環器学の啓発・普及・教育、診療指針としてのガイドラインの策定、 診療体制の整備、疫学研究・臨床研究の推進、病態解明のための基礎研究の推進、産官学連携による戦略的な取り組みの推進など様々な活動を行っています。 日本腫瘍循環器学会は、実際診療に当たっている方たちに一刻も早く診療のガイドになるものを届けたいと考えて2020年に「腫瘍循環器診療ハンドブック」を発刊しました。 また現在は日本臨床腫瘍学会、日本腫瘍循環器学会が中心となり、日本癌治療学会、日本循環器学会、日本心エコー図学会協力して、腫瘍循環器のガイドラインを作成しています。

腫瘍循環器学の目指すべきゴールは、がん患者さんが循環器疾患を発症することなく十分ながん治療を受けられるようにすることであり、 また治療を受けたのちに循環器疾患で命を落とすことがないようにすることです。 そのためにも今まで接点の少なかった腫瘍の専門医と循環器の専門医が連携して活動をしていきたいと考えています。 新しい領域なので医師でもまだ知らない人も多いと思います。 何かわからないことがありましたらいつでもご相談いただけたら幸いです。


小室 一成(こむろ いっせい)

1982年3月東京大学医学部医学科卒業、 1984年6月東京大学医学部附属病院第三内科医員、 1989年9月医学博士取得、 1989年9月ハーバード大学医学部博士研究員、 1993年11月東京大学医学部第三内科助手、 1998年5月東京大学医学部循環器内科講師、 2001年4月千葉大学大学院医学研究院循環病態医科学教授、 2009年10月大阪大学大学院医学系研究科循環器内科学教授、 2012年8月東京大学大学院医学系研究科循環器内科学教授、 2020年東京大学保健・健康推進本部本部長、大学院内科学専攻長、 2021年日本医師会医学賞受賞
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