市民のためのがん治療の会
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『西尾正道著『被曝インフォデミック』を読んで』


加治川 三太郎

私は西尾先生が放射線治療医として、また一個人として現代社会の様々な問題に鋭い問題提起をされていたことはメディアを通して知っており、その批判的営為にひそかに拍手を送っていました。

私は1969年~70年の学園闘争のなかで青春時代を過ごした、西尾先生と同時代人です。 若い日々の闘いの体験と思索は、その後の人生航路の方向を決める強い動因となりました。

あれから半世紀以上が過ぎました。

その私が10年前に食道がんになった際、西尾先生とは約40年音信不通であったにもかかわらず、不躾にも時空を超えた知己のごとく職場に電話をかけ相談にのっていただきました。 西尾先生のアドバイスは不安になっていた私にとってありがたく、力強く感じました。 ありがとうございました。

その後新型コロナ危機のなかで、『被曝インフォデミック』の出版を知った私はすぐに買って読みました。 西尾先生の文章は人間主義に立脚して科学的に展開されています。 現在私は、労働運動の中で福島第一原発事故の処理水放出に反対する闘いを進めています。 『被曝インフォデミック』を何度も読んで運動方針に適用させていただいています。

本書の「はじめに」で次のように書かれています。

「今後、福島第一原発事故後の健康被害は数十年単位の長期的な経過で明らかになると思われる。 したがって本書の内容は20~30年後になって改めて見直されることになると思っている。 そこで現在までの原発事故後の規制値の変更(緩和)や、棄民政策とも言える政府の対応についてまとめ、 さらに科学者たちからも軽視・無視されている内部被曝の問題と、トリチウムを大量に含んだ汚染水の海洋放出の危険性について書き残すこととした。」(4頁)

ここで言われているように、この本では原発事故後の政府の政策、内部被曝、トリチウム汚染水の問題に関する筆者の認識と判断の基準が示されています。 後世になって顕在化するであろう健康被害の原因を探る科学的基準が今日的に明らかにされた良書だと思います。

今日は本の感想を、私が最も印象に残ったところに絞って書いてみます。

第2章「放射線治療医として」の「はじめに」のところについて

私は医学医療に関しては門外漢であり書かれている専門の領域はわからないところが多い。 けれども職業上の専門性を超えたところで相づちを打って読むことができるところがありました。 20頁の下段から21頁にかけての文を引用します。

「土・日もなく、ただただ仕事だけの生活でしかなかったので、無趣味な人間となり、退職後は時間を持て余すと思っていたが、 2011年の福島第一原発事故後は放射線の裏の世界・闇の世界を調べたりして時間を使っている。 こうした生活の中で、現在感じていることを少し書きたいと思う。 私は新人医師が来れば、一緒に診察して病巣局所の所見の図やスケッチを描くようにさせていた。 頭頚部がんでは額帯鏡を使用した視診、子宮頸がんでは検診台に載せて内診して診察し、腫瘍の浸潤状態のスケッチを描いてもらい所見の擦り合わせを行った。 しかし、今ではCT画像上で治療計画をするようになり、視診・触診が疎かになっているようだ。

粘膜を張ったような病巣はCTで描出されるわけではないので、やはり治療計画をする場合も視診・触診をきちんと行って病巣の浸潤範囲を正確に把握する必要がある。 こうした基本的な診察技術を持たなければ、どんなに治療機器が高精度化しても治療成績に反映しない。」(20~21頁)

引用した文の終わりで「基本的な診察技術を持たなければ、どんなに治療機器が高精度化しても治療成績に反映しない」と書かれています。 いわれていることはどんな種類の労働にも妥当する経験的事実です。 基本的な技術をもたなければ、どんなに機械が高精度化してもいいものはつくれません。 けれどもコンピューターを使った機器の技術的改善は著しく進展しており、文章まで書けるAIの開発は「機械が人間労働にとって代わる」というコンピューター万能論まで誘発しています。 労働過程において労働手段となる機械がコンピューター化され機能が高まると、現象的には機械が労働をしているように見えるため先のような謬論が発生することもあるのです。

ところで基本的な診察技術がおろそかにされ治療機器に頼るという医療労働はあえて言えば、 「技術とは労働手段の体系である」という誤った技術論が意識的に克服されていないからだといえます。 もちろん、問診・視診・触診なしに、機械の打ちだすデータを解析することが診断することだと思っているような傾向は、技術的に高度化された機械の機能に幻惑されたひとつの「常識」なのでしょう。 この「常識」は技術=労働手段体系説という観点からあえて捉えなおして理論的に考えてみる必要があると思います。

技術=労働手段体系論は、ソ連のスターリン主義哲学の影響を受けた1930年代の日本の「唯物論研究会」でうちだされ、戦後日本の技術論論争で批判されました。

【註;なお、叙述の方法にかんして一言述べます。 この本で扱われている「診察技術」は、資本制生産様式が全面的に行われる社会の経済原理に規定された医療労働過程における技術のことです。 すなわち価値増殖過程と統一された労働過程における技術です。 それは資本の経済合理性に制約されます。本書第2章「放射線治療医として」の末尾に書かれている通りです。

「40年近い臨床の場でつくづく感じるのは、どんなによい治療法でも儲からない治療法は消えるということである。医療も経済原則の中で動いているのである。」(39頁)

けれどもここではマルクス『資本論』第五章にならって「どの規定された社会的形態にもかかわりなく考察」することにします、 資本制的生産=労働過程からその歴史性及び社会性を捨象して労働過程一般を抽象して論じる方法からアナロジーして、ひとりの医療労働者の診断労働における技術を考えてみようと思います。】

技術について

『被爆インフォデミック』の新人教育の診察技術にかんするところを読んだ私は、物理学者武谷三男の『技術論』を連想しました。 武谷三男は次のようにいいます。

「技術とは、人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である」。 「これは技術の本質的規定であって、労働手段等は技術の現象形態なのであります。」(『弁証法の諸問題』武谷三男著 勁草書房新装版157頁)

西尾先生が言う「基本的な診察技術」とは、武谷技術論にふまえるならば、 診察労働においてCT画像だけでなく視診・触診をきちんと行って病巣の浸潤範囲を正確に認識・把握しなければならないということです。 治療計画を行う際に対象の法則性(病態)を正確に把握(診察)しなければならなりません。

ここで言われている治療機器は診察労働過程において労働手段となる機械です。 労働対象となるのは医師の前に措いてある患者としての人です。 医療労働過程も労働主体、労働対象、労働手段の3つの要素が主体の対象への働きかけ(診察労働)を起点として結び合わされる過程です。 診察技術は労働手段となっている高精度化したCTなどの機械ではありません。 診察技術はCT画像の分析と統一された医師による患者への働きかけ(視診・触診)という実践において発現されるものだということです。

ここで言われていることはどんな種類の労働にもあてはまる。 たとえば、私はかつて合板製造工場で長く働いていました。 医療労働過程もそうですが、合板生産過程は分業化され多くの労働者の協業によって進められます。 私はその中のひとつの工程に配置されて働きました。 一定の長さにぶつ切りされた丸太を回転旋盤にかけてちょうど大根のかつら剥きのように薄く剝きあげる。 労働対象は回転旋盤(ロータリーレース)に切り口の芯の両端をスピンドルではさまれ固定されたぶつ切り丸太、労働手段はロータリ-レースというかつら剥きの名人のようなNC工作機械。 労働者が労働対象の形状・硬軟の認識に踏まえて頭の中に形成されたキレイに剥くという目的意識とともに労働力を労働手段を介して労働対象に対象化する全過程が技術の発現過程です。

武谷三男は戦争中の1945年2月に警視庁の取り調べの際に『技術論』を書きました。 武谷がその論文で技術とは労働手段の体系であるという説を批判して「技術とは人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である。」と述べたことは、その後実践論としての技術論の解明に引き継がれていきました。 私は医療に携わる特に若い人に、是非とも技術(本質)論をも学んでいただきたいと思います。

参考文献:
『弁証法の諸問題』(武谷三男 勁草書房)
『社会の弁証法』(黒田寛一 こぶし書房)

加治川 三太郎(かじかわ さんたろう)

1947年島根県生まれ。札幌医科大学中退。
民間会社で働きながら、労働組合運動に参加。組合活動の中でマルクス主義の研究と適用に専心。
マルクス主義認識論、合理化論、賃金論ほかの論文執筆。
『認識論探究ノート』(2022年6月;同時代社)のご紹介

『被爆インフォデミック』の感想文の中で引用した武谷三男の技術の本質規定<技術とは人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である>は、実践の論理として捉えなければならないと思います。 実践するためには変革対象を認識しなければなりません。 私は実践の論理の一モメントとしての認識の論理を考えてきました。 西尾先生が「基本的な診察技術」のところで、「治療計画をする場合も視診・触診をきちんと行って病巣の浸潤範囲を正確に把握する必要がある」と言われている実践=認識の論理にかかわります。

労働過程において労働主体が労働対象に働きかける際の対象の認識過程の論理にかんして一時期盛んに研究され本も出されましたが、最近はその追求は止まっています。 私はあることがきっかけで30代後半から生産工場で働きながら認識対象を認識する論理の探究をコツコツと重ねてきました。 なかなか進みませんでしたが、折にふれて書いた論文を集めて『認識論探究ノート』と題した本をだしました。

2022年6月に同時代社から発刊された『認識論探究ノート』(加治川三太郎)は黒田寛一の『経済学と弁証法』(こぶし書房)や『社会の弁証法』(同)に貫かれた論理の追体験的把握を追求したものです。 本書「Ⅳ 黒田寛一『社会の弁証法』天然資源の規定について」という論文は2020年に新たに書いたものです。 『社会の弁証法』労働過程論で明らかにされた、「天然資源」の規定の意義を唯物論的認識論の立場に立って明確にしたと思っています。

唯物論的認識論を継承し進化するために、過去の私の論文にたいする通俗的批判にもまじめに向き合って批判的諸論文をコツコツ書きました。読んでいただければ幸いです。

紹介

黒田寛一の哲学から学び、 そこからマルクス主義認識論を掘り下げ深化・継承するために思索した論文集。

目次

Ⅰ 「となる」のマルクス的論理
Ⅱ 認識論の存在論的展開の克服とは?
   ――『革命的マルクス主義とは何か?』の改訳について
Ⅲ 廣松渉のBewustsein fur esとBewustsein von Etwasとのちがいについて
   ――廣松渉の認識論批判序説
Ⅳ 黒田寛一『社会の弁証法』天然資源の規定について(「探究派」論文批判)
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